とりまきの本名が、文明だから、と言うわけでもないが、
いま福沢諭吉の「文明論之概略」を読んでいる。
とても興味深く、愛読書になる予感のする本である。
本書を読んでみて、はじめて知ったのだが、
日本の啓蒙主義の親分である福沢諭吉は、
人智進歩の妨げとなる論語が嫌いだったようだ。
本書に、ひんぱんに出てくる惑溺(わくでき)という
コトバにも、その一端がうかがわれる。
然りといえども、 甚だしきは他の不便利を問わずして |
モノにせよ、コトにせよ、
大切なのは、中身(ソフトウェアの機能)が、
時代に合っているか、どうか、なんだ。
時代が変わっても、外側だけを重んじ、
いつまでも、使えると思い込んでいるなんて、
アホと、ちゃうんかい。(とりまき自由訳)
、、、まぁ、いずれにせよ、古代に書かれた論語が、明治時代になっても、
金科玉条のように扱われるなど、ガマンできなかったようだネ。
いちじ、論語に夢中になった当方としては、本書を読むことで、
いいぐあいに、気持ちが中和されていくような感じがして、おもしれぇワ。
もっとも、論語は、渋沢栄一の解説で読んだので、
諭吉(と呼び捨てにしても、いいのかしらん)の言う惑溺っぽさは、
かなり薄い気がするのだが、、、。