一般的に言われているように藤村の文体は読みづらく、
しかも長編なので、読み終える迄かなりの時間を要した。
家の歴史を描いた物語でも、鴎外の考証的な『渋江抽斎』に対し、
藤村は歴史をスケッチしていった感があり、
そのことが読みにくさに関係しているのかも知れない。
この小説は、黒船の来航から明治19年までの主人公の生涯が描かれている。
主人公の青山半蔵は、藤村の父がモデルだ。
半蔵は先祖代々より木曽街道沿いに、問屋・庄屋・本陣を営む家に生まれた。
この辺の詳細は知らないが、この小説を読む限り、参勤交代等に伴う荷の取継ぎや
宿泊の手配等を行う仕事を行っていたようである。
司馬遼太郎の歴史小説を多読してきた当方としては、
公武合体による和宮の御幸、天狗党の政治的示威行進、開港を遠因とするインフレの影響など、
この小説に書かれている街道筋から見た政局や経済は興味深く、新鮮であった。
時代が大きく変わる時は、多くの職業が淘汰されてゆく。
半蔵も多分に漏れず、参勤交代の廃止が遠因となり、先祖代々の職業は廃れてしまう。
そのため、半蔵は庄屋から業務委譲された戸長、教務省の御雇い、飛騨の宮司に職を得るが、
彼の一本気の性格や経済的な不満により、いずれの職も辞してしまう。
また宮司になる際に息子に家督を譲るが、膨大な借財を残す結果に陥ってしまう。
先祖代々の旧家が瓦解してゆくわけだ。
この経緯が積もりに積もったせいか、
狂信していた(平田篤胤を仰ぐ)国学が思うように社会に受け入れなかったせいか、
彼は祖先の建立した寺に放火をし、最後は親族により作られた牢屋で狂死してしまう。
話は前後するが、明治天皇の御幸の際に、御馬車の中に
自作の歌を書いた扇子を投進した事件は、彼の発狂の前兆を思わせる逸話である。
鴎外は自著『渋江抽斎』に関して、「この史伝で、事実を選別する意味の批評は行うが、
価値の判断は徹底して避ける。即ち客観に徹した」(伊沢蘭軒「巻末」)としている。
が、しかし、読み手としては、鴎外の抽斎を敬慕する気持ちが随所に感じられる。
それに対し、『夜明け前』では、藤村が青山半蔵をどう評価していたか、、、
ぼんやりしたまま なんだなぁ。