だが、
これは、僕の思い込みに過ぎないようだ。
「アメリカ素描」(同氏/新潮文庫)には、
「論語」が好きである、とハッキリ書かれている。
すなわち、司馬さんが、いくつかの小説で
「論語」を否定的に描いて来たのは、個人の好みではなく、
小説の文脈上、述べられていたのだと思う。
(かつての中国、朝鮮が近代化できなかったのは、
「論語」の後進性…時代の変化に対応できず、
実際面から遊離してしまうこと…の影響が大きい等々。
一方、本書には、こう書かれている。
西欧風の何事も明瞭にしようとする西欧と違い、
「論語」は、「どの句も50パーセントしか語っておらず、
読み手は自分の中の50パーセントを持ち出さねば補完できない。
つまり、察せねば、読むことができない」(P138)
鋭い洞察だと思うし、
司馬さんの著作にも、そういう一面があると思う。