鳥巻メモ

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物のあわれ


万葉集」も「源氏物語」も名前しか知らず、
物のあわれが何か、知る由もないのだが、、、。


ただ、この文章は「なるほどなぁ」と思うなぁ。
少し元気にもなるし。


誰にとっても、生きるとは、物事を正確に知る事ではないだろう。
そんな格別な事を行うより先に、物事が生きられるという極く普
通な事が行われているだろう。そして極く普通の意味で、見たり、
感じたりしている、私達の喜怒哀楽の情に染められていて、其処
には、無色の物が這入って来る余地はないだろう。それは、悲し
いとか楽しいとか、まるで人間の表情をしているような物にしか
出会えぬ世界だ、と言っても過言ではあるまい。それが生きた経
験、凡そ経験というものの一番基本的で、尋常な姿と言ってよか
ろう。合法則的な客観的事実の世界が、この曖昧な世界に、鋭く
対立するようになった事を、私達は、教養の上で良く承知してい
るが、この経験の「ありよう」が、変えられるようになったわけ
ではない。


宣長は、経験という言葉は使わなかった。だから、ここでもう一
度引用するようになるのだが、「よろづの事を、心にあぢはへて、
そのよろづの事の心を、わが心にわきまえしる、是事の心をしる
也、物の心を知る也(中略)わきまえしりて、其しなにしたがひ
て、感ずるところが、物のあわれ也」(紫文要領 巻上)―そう
すると、「物のあわれ」は、この世に生きる経験の、本来の「あ
りよう」のうちに現れるという事になりはしないか。
本居宣長(P295〜296)」小林秀雄