露悪的
単に、形式で、ひと括されてしまうことに
異議を唱えている夏目漱石なら、
「三四郎」が、日本の教養小説の代表作である、
という評価に、苦言を呈するに違いない。
いや、それ以前に、
故郷の熊本を発った三四郎が、東京で、
佐々木与次郎(モデルは正岡子規だろう)、
広田先生、ミネ子たちの交流を通して、
内面が成長しているようには、思えない。
この小説の肝の部分は、
偽善と露悪について語る、
広田先生の言葉にあるに違いない。
広田先生の青年の時代は、
御上や親などを、立てたものだが、
時代が下ると、
当時、空気のようだったことが、
偽善に映るようになってくる。
と、同時に、
西欧から(形式だけの)個人主義が入ってくると、
偽善に耐えられなくなって、
露悪的な人が出現してくる。
また露悪的な不便が極端に達した時、
利他主義が復古する。
露悪的というコトバは、
(漱石の造語だとされていて)なじみがない。
小説の広田先生のコトバを引用しておこう。
「他の言葉で云うと、偽善を行うに露悪を以てする。 まだ分からないだろうな。ちと説明し方が悪いようだ。 ―昔の偽善かはね、 ところが、その反対で、人の感情を害する為に、 相手は無論厭な心持ちがする。そこで本人の目的は この方法を巧妙に用いるものが近年大分殖えて来た様だ。 血を出さなければ人を殺せないというのは随分野蛮な話だからな君、 (行替え、とりまきによる) |
ネット社会でも十分、考えさせられる発言なのである。