「漱石は媒体により書き分けていた」説


漱石の作品は、
療養先で吐血して死の淵をさまよう、
いわゆる、修善寺大患のあと、
作風が変わったという説がある。


私感では、そうではなく、
漱石先生は、媒体によって、
作風を書き分けようとしたのでないかと、
思っている。


「坊ちゃん」と「我が輩は猫である」は、
 子規(虚子かな?)が主宰していたホトトギスに連載された。


「草枕」は、新小説である。


それ以降の作品は、
朝日新聞に入社し、同社の紙面に掲載された。


その際の第一弾の作品は「虞美人草」だが、
紙面を意識しすぎて、やや重い美文調になってしまった。


それを思って、次に「三四郎」を書いた。


以降、人間のエゴを描いた一連の作品となっていくのだが、
それが朝日新聞と、どう関係あるのかと言われると、
私感の媒体説は、だいぶ怪しい感じもしてくるが。
ま、明治の後期から大正の、世相と関係があるのかなぁ。