ドストエフスキーや漱石の、数々の小説の中には、
エゴに振り回される人間が、繰り返し、繰り返し、描かれている。
両文豪の作品が、150年、100年経ても、
読み続けられているのは、エゴの感覚が、当時も現在も、
それほど変わっていないからじゃないか?
、、、いや、違うか?
時間がたつにつれ、エゴは、ぼんやりしてきているが、
その反面、無意識の中に、深く内向しているのかもねぇ。
村上(春樹)作品にも、エゴが描かれていると思うけれど、抽象化されている。
しばらく読んでないが、そうじゃなかったかなぁ。
ま、少なくとも、売れているのは意味があるわけである。