宮沢賢治レイモンド・カーヴァーの小説は、
スタイルこそ散文だが、ありゃぁ、詩だよなぁ。


参考までに、詩の読み方について、
吉本隆明さんの「詩とはなにか」より抜粋しておこう。


大抵のばあい、わたしは、よんでもうまくわかったと感じられない作品を
まえにすると、わかったと感じられる個処をつなぎあわせて作品全体の秩
序が感受できれば、その作品の鑑賞をおしまいとするのである。じぶんを
普通の読み手として現代詩の観賞をかんがえるばあい、わたしはこれだけ
で満足している。この満足は、じぶんだけのものではなく、普遍化できる
ものだ、というのが現代詩の書き手として、またそれを批評するものとし
てのわたしの立場である。


また、テス・ギャラガー(レイのカーちゃん)の書いた
「滝の新しい小径」(レイモンド・カーヴァー)のイントロダクションには、
こういう一節がある。


彼が詩作を通してたどり着いた真実は、
彼が初期に敬愛していたウィリアムズさえも想像しえなかったほどの、
技巧の放棄を物語っていた。彼はミウォッシュの『詩学?』の中の数行を読んで、
それを感じ入ったものである。


私はいつももっと広々したフォームを求めてきた。
詩とか散文とかいったせせこましい区別から自由になって、
作者や読者を崇高なる苦悩の前に晒すことなく、
私たち互いに理解しあえるようなフォーム。


詩のいちばん根本の部分には野卑な何かがある。
自分の中にそんなものが存在していたなんて知らなかったものが出てくる。
私たちは目をみはる。まるで虎がそこから逃げ出してきて、
光の中に立って、尾をさっとうち振っているみたいに。