文明論之概略

とりまきの本名が、文明だから、と言うわけでもないが、
いま福沢諭吉の「文明論之概略」を読んでいる。
とても興味深く、愛読書になる予感のする本である。


本書を読んでみて、はじめて知ったのだが、
日本の啓蒙主義の親分である福沢諭吉は、
人智進歩の妨げとなる論語が嫌いだったようだ。


本書に、ひんぱんに出てくる惑溺(わくでき)という
コトバにも、その一端がうかがわれる。


然りといえども、
習用の久しき、あるいはその事物に就き、
実の効用ば忘れて、ただその物のみを重んじ、
これを装いこれを飾り、これを愛しこれを眷顧(けんこ)し、


甚だしきは他の不便利を問わずして
ひたすらこれを保護せんとあることあり。
即ち惑溺にて、世に虚飾なるものの起る由縁なり。
文明論之概略」(岩波新書 P49)


モノにせよ、コトにせよ、
大切なのは、中身(ソフトウェアの機能)が、
時代に合っているか、どうか、なんだ。


時代が変わっても、外側だけを重んじ、
いつまでも、使えると思い込んでいるなんて、
アホと、ちゃうんかい。(とりまき自由訳)


、、、まぁ、いずれにせよ、古代に書かれた論語が、明治時代になっても、
金科玉条のように扱われるなど、ガマンできなかったようだネ。


いちじ、論語に夢中になった当方としては、本書を読むことで、
いいぐあいに、気持ちが中和されていくような感じがして、おもしれぇワ。


もっとも、論語は、渋沢栄一の解説で読んだので、
諭吉(と呼び捨てにしても、いいのかしらん)の言う惑溺っぽさは、
かなり薄い気がするのだが、、、。