「パイドロス」その1


小林秀雄の「本居宣長」が、尾を引いており、
折りを見て、その中で紹介されていた書籍のページをめくっている。


現在は、プラトンの「パイドロス」を読んでいる。
とうとう、古代のギリシア哲学まで来てしまいました。


以下は、ハナシの核になる箇所。
弁論の技術に主体性を持たせているソクラテスの言い方も
気にいっている。




ところで、よき友よ、僕たちは必要以上に、
言論の技術というものを責めるのに酷でありすぎるのではないだろうか。


おそらくこの技術はこう言うだろう。


「あきれた人たちだね。何をいったい、くだらぬことをしゃべっているのだ。
真実を知らずに話し方を学べなどと、誰も命じていないではないか。
私が命じているのはこういうことなのだ、


つまり、もし私の忠告することになんらかの価値があるとすれば、
まず真実をわがものとした上で、
この私、言論の技術を把握しなければならぬということなのだ。

しかし、これだけは自慢してもいいが、もし私のたすけがなければ、
ものごとの真実がどうあるかを知っている者といえども、
技術にかなった仕方で説得することは、けっしてできはしないだろう」
岩波新書P95/藤沢令夫役


ざくっり言って同時代の孔子も、
上記のことを連想させるコトバを多く残している。


子曰く、巧言令色には鮮し仁。(学而編)
子曰く、古えの学者は己がためにし、今の学者は人のためにす。(憲問編)