小林秀雄の「本居宣長」の中に、
江戸初期の人、中江藤樹のコトバが引用されている。
先師何事にてもまねをいたす程の事はなく候。
只言葉にズントいう事を被(レ)仰候。
夫より外はまね申事無(二)御座(一)と被(レ)仰候。
このコトバに接して、
漱石の講演議事録『私の個人主義』が思い浮かんだ。
いわゆる「人生ツルハシ論」である(とりまきが勝手に作ったコトバだけどネ)。
何十年かかっても、自分のツルハシで、
カチンという音がするまで掘って行くことが大切だという話。
といっても、何を言っているか分からないと思うので、実際に本をからひも解いてみた。
ちょっと長いが引用してみるゼ。
もし貴方がたのうちで
既に自力で切り開いた道を持っている方は例外であり、
また外の後に従って、それで満足して、
在来の古い道を進んで行く人も悪いとは申しませんが、
(自己に安心と自信がしっかり付随しているならば、)
しかしもしそうでないとしたならば、
どうしても、一つ自分の鶴嘴(つるはし)で
掘り当てる所まで進んで行かなくてはならないでしょう。
もし掘り当てる事が出来なかっなら、その人は生涯不愉快で、
始終中腰になって世の中にまごまごしなければならないのです。
私のこの点を力説するのは全くそのためで、
何も私を規範にしなさいという意味ではないのです。
私のような詰らないものでも、
自分で自分が道をつけつつ進みたいという自覚があれば、
あなた方から見てその道がいかに下らないにせよ、
それは貴方がたの批判と観察で、私には寸毫(すんごう)の損害がないのです。
私自身はそれで満足する積もりであります。
しかし私自身がそれがため、自信と安心を有(も)っているからといって、
同じ経路が貴方がたの規範になるとは決して思わないのですから、誤解してはいけません。
(中略)ここからは中江藤樹の「ズント」の句と離れていくが、、、
それで私は常からこう考えています。
第一に貴方がたは自分の個性が発展出来るような場所に尻を落ち付けべく、
自分とぴたりと合った仕事を発見するまで邁進しなければ一生の不幸であると。
しかし自分がそれだけの個性を尊重し得るように、
社会から許されるならば、他人に対しても個性を認めて、
彼らの傾向を尊重するのが理の当然になって来るでしょう。
それが必要でかつ正しい事としか私には見えません。
|